「ブレーキかけてあげる存在になりたい」 元五輪選手が、トレーナーの道を選んだ理由(前編)

 大事な試合を前に、選手がけがをしてしまう。無理をすれば間に合うかもしれないが、強行出場すればその後の選手生命を左右するリスクを負う・・・。スポーツ指導の現場に関わる人であれば、このようなケースを経験することになる。答えはどこにもなく、選手本人が納得できる道を一緒に模索するしかない。

 長野五輪、ソルトレークシティ五輪に連続出場した元アルペンスキー選手で、現在はトレーナーを務める柏木久美子さん。彼女の競技人生は、たび重なるけがとの戦いだった。18歳の時に初めてひざのじん帯を損傷してから27歳で引退するまでに、ひざにメスを入れた回数は合計10回。それでも、人前で弱音を吐くことはなかった。誰にも弱みを見せたことのない彼女が、一度だけ抱え込んだ悩みを自然に打ち明けられた瞬間。それはトレーナーからマッサージを受けている時だった。

 スキーにすべてをかけていた柏木は、トリノ五輪の代表選考に落選した時、「スキーはもういい。死んでしまおう」とさえ考えた。そんなどん底の精神状態でふと思い出したのが、かつて心の支えとなってくれたトレーナーの存在だった。柏木は第二の人生として、トレーナーを志すことを決意した。

▽スキー一家と将来の夢

 柏木は札幌五輪に出場したアルペンスキーの選手でもある父の影響で、物心ついてすぐにスキーを始めた。父が経営する新潟県のスキースクールでめきめき頭角を現すと、12歳の時に祖母が住む北海道の小樽市へ単身でスキー留学した。両親と離れ離れになる寂しさはあったが、「オリンピックに出るためにはここで頑張るしかない」とすぐに気持ちを切り替えた。

 スキーをすること、北海道に留学すること、オリンピックを目指すこと、何一つ強制されてはいない。気づいた時には、「必ずスキー選手としてオリンピックに出る」という、強い意志を持って生活していた。大会で活躍して名前を売り、メーカーにサポートしてもらい、全日本入りして国際大会で活躍する。柏木の人生には、この時すでに明確なマイルストーンが置かれていた。

 14歳の時に、世界ジュニアのメンバーとして初めて日本代表に選ばれた。その後、すぐにワールドカップのトップチームに選抜。活躍の場を最高峰の国際大会へと広げていく。当時は同世代にまったく負ける気がしなかった。しかし、けがをきっかけにすべてが変わってしまう。

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▽けがで狂いだした歯車

 きっかけはとても些細なことだった。

「代表チームに入ってすぐのことでした。体力測定のあらゆる項目の中で、体脂肪率があと0.3%だけクリアできていませんでした。これが悔しくて、減量のために食事を抜いたりしました。世界で活躍すること、オリンピックに出ることでなく、体力測定でいい数値を出すという目先のことにいつの間にか目標が変わってしまっていました。数値が問題視されたわけではなかったのに、勝手に自分を追い込んでいました」

 体調が少しずつ悪くなっていったところに、ひざのじん帯の負傷が重なった。それまではすべきことが明確で、目的がぶれることはなかった。しかし、その後はけがをしないためにどうすればいいかばかりを考えるようになった。ジュニア時代と比べて思うような成績も残せなくなっていき、早く復帰しようと無理をしては、けがを再発させるという悪循環に陥っていた。

 競技を取り巻く環境も影響していた。日本ではマイナースポーツであるアルペンスキーの選手にとって、ゆっくりとけがを治している時間はなかった。長期の戦線離脱は、スポンサーとの契約解除を意味していたからだ。また、全日本女子のアルペンスキーチームには、トレーナーも帯同していなかった。柏木はテーピングの巻き方も分からないまま、切れたじん帯で滑り続けた。それが普通だと思っていた。

 長野五輪には、無理やり間に合わせた。当時はいかに我慢して、痛みに耐えてリハビリするかばかりを考えていた。ドクターは適切なリハビリメニューや復帰スケジュールを考えてくれた。しかし、無理をして「痛くない、もっと負荷をください」とさらに自分を追い込んだ。本当は痛くてたまらないのに、誰にもその姿を見せることはできなかった。

 けがが完治する前に競技復帰して再発、再手術してはリハビリへ。同じことを毎年のように繰り返した。最後は満足に20分ほども歩くことができなくなり、心身ともにボロボロの状態だった。

「止めてくれる人もいたけれど、気づくことができませんでした。気づいたとしても、同じ過ちを何度も繰り返してしまったのです。周りが見えていなかったことと、私自身の頑固な性格もあるのだと思います」

▽代表落選と家族の支え

 98年の長野、02年のソルトレークシティ五輪に連続出場。06年のトリノ五輪を前にして、周囲からはけがで引退を勧告されていたが、それでも追い込んで競技を続けた。オリンピックの舞台で滑ることが、人生にとってすべてだったからだ。しかし、三大会連続の出場を目指したトリノ五輪。彼女は3名の代表選手枠に入ることはできなかった。自分が代表に選ばれないとわかった時の心境をこう振り返る。

「心臓を殴られたような感覚でした。その場では平然を装っていましたが、一人になって絶望感に襲われました。オリンピックだけを目指して生きていたので、先のことが考えられず、生きていく気力を失いました」

 失意の中で海外の遠征先から帰国し、父に落選を報告した。

「日本代表に落選したから、絶対父に怒られると思いました。小さな頃から本当に厳しい人で、優しい言葉をかけてもらったことは一度もありません。二人きりになった時、『どうだ?』と聞かれて、謝るしかないと思ったけど何も言葉が思いつかず、『疲れちゃった・・』と答えました。すると父が『そうか、疲れちゃったか・・』とだけ言って、一緒に泣いてくれました」

 引退を決意した彼女は、「骨切り術」という大きな手術を受けて、腰の骨をひざに移植した。長期の入院とリハビリ生活を経て、実家に引きこもっていた彼女を支えたのは、母の洋子さんだった。

「実家はペンションをやっていたのですが、1週間くらい引きこもっていた私を母が心配して、『ちょっと手伝って』と引っ張り出してくれました。私がどんなに悩もうが、毎日お客さんに食事を作らなきゃいけないし、世の中は回っている。しっかりしなきゃと思いました」

 さらに、兄の義之さんもこう声をかけてくれた。

「俺なんてオリンピックもワールドカップも、お前が活躍した大会に何一つ出たことないんだぞ。大変なことがあったかもしれないけど、大舞台でスキーができて、素晴らしい競技人生だったじゃないか」

 家族の温かいサポートのおかげで、少しずつ立ち直っていった。だが、スキーという人生の目標を失ってしまった今、これから先に何をすればいいのか分からなかった。そんな彼女が第二の人生を歩みだすきっかけになったのが、現役時代にトレーナーからマッサージを受けた時の記憶だった。

 当時、女子の日本代表チームにはトレーナーが帯同していなかったが、男子チームには専属トレーナーがいた。じん帯が切れたまま滑っていた柏木を気づかって、そのトレーナーが柏木の体をケアしてくれることがあった。

「それまで誰にも弱みを見せたことがなかったのに、心身ともにリラックスして、マッサージを受けながら、ボロボロと悩みを打ち明けることができました。けがが多いスキー人生でしたが、学んだことも多かったです。そして、本当にたくさんの人がサポートしてくれました。だから、今度は私が誰かを助けたい、自分の人生を捧げたい。もう、私のような選手を生み出しちゃだめだと思いました」

 柏木は第二の人生として、トレーナーを目指すことを決意した。
(後編に続く/文:松元竜太郎)

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